「自分からお願いして応援してもらう」ことへの違和感
2014年にミスター関大に出場したそうですね!何か思い出に残っていることはありますか?
特にどれがというわけでは無いのですが、色々と行われた撮影はすべて印象に残っていて楽しかったです。“何かを形に残す”ということが好きなので、ミスターの活動で撮られた写真はどれも満遍なく思い出深いものばかりです。
イベント本番まではどのような気持ちで活動に臨んでいましたか?
元々、出場したきっかけはミスターコンテストの実行委員が友人にいて、その友人から誘われたことでした。なので、ファイナリストに選ばれてからも最初の頃は割と気軽な気持ちでいましたね。ですが、グランプリが決定するファイナルイベントが迫るにつれて段々と苦しくなってきました。
「苦しい」というのは、具体的にどういうことですか?
矛盾しているかもしれませんが、SNSなどで自分への投票を促すことや活動を発信することがとても苦しかったです。「自分からお願いして応援してもらう」ということにすごく違和感を感じていたんですよね。でも、決してミスターコンテストの活動というのはこっそりやるものではないじゃないですか?さらに、自分が絶対にグランプリになりたいという気持ちもそこに混ざり、様々な葛藤を抱えながら活動していました。
そんな中迎えたファイナルイベント当日、どうでしたか?
今でも鮮明に覚えているのは、グランプリ発表前のドラムロールですね。半年間の活動の成果が決まると思うと吐き気が止まりませんでした。いつまで鳴っているかが分からなくて時間が止まったかのようにも感じましたね。僕自身の結果は残念なものとなりましたが、グランプリはふさわしい人物が選ばれたと感じていて、納得はできました。
凝り性ゆえの趣味
自分の性格を一言で表してみてください。
凝り性、ですかね。一つののものにハマってしまったらとことん打ち込んでしまうんですよね。
最近、何か凝っているものはありますか?
最近は将棋にハマっています。元々、ちょっと頭を使うゲームとかが好きで、昔から何となく興味があったこともあって始めてみました。将棋はパターンが決まっているので、このパターンを知っているか否かが勝敗のカギを握っているんですよ。極めればどこまでも強くなれるので
、僕の性格と合っているなと感じています。
当たり前と思っていることが実はおかしいのではないか
大学ではどのようなことを勉強していますか?
今は主に卒業論文の作成をしています。「共同幻想」というものをテーマにしていて、「社会や集団の共通認識などが本当に正しいのかどうか?」と言った内容を書いています。例えば、LGBT(性的少数者の総称)問題などがこれに当たりますね。現在、LGBTは認められつつある傾向にありますが、以前は抑圧されていました。何故、抑圧されることになったんでしょうか?また、マイノリティや社会的弱者と呼ばれる人たちは、何故そうような立場になってしまったのか?何の利益があって生み出されてしまったのか?何故、前年代の民衆はマイノリティと分類されているものがマイノリティの立場であることを疑問を持たずに過ごしていたのか?抑圧されていたものが認められるようになった過程や、前年代と現代でのイデオロギーの変化の変遷を追うことによって、これらの疑問の答えに迫ろうとしています。
これを卒論のテーマにしようとしたきっかけは何ですか?
たまたま、図書館で「構築主義(事実や現実は人間関係の中でそのつど生成,変形されると考える立場)」について述べている社会学の本を読んだことがきっかけです。構築主義ののを対象にして使えないかと思い、共同幻想を選びました。 共同幻想を選んだ理由は、それが道義上いいことか悪いことかはさておき、「当たり前と思っていることが実はおかしいのではないか?」ということを機能的に分析するためには共同幻想という言葉を置くのが一番良いと判断したからです。難しいテーマですが、卒論は大学で学んだことの集大成となるので頑張って取り組んでいこうと思います。